富士山
超遠望の富士山
多少古いニュースですが、日本経済新聞の2015年1月31日付け夕刊に「富士山よく見える 都内から眺望50年で6倍」と言う記事がありました。
記事によれば、大気汚染の改善とヒートアイランド現象による乾燥の結果、2014年に東京から富士山が眺められた日が138日に上ったということです。気象観測所長さんの「今は明治時代並みか、それ以上に富士山が見られる日が多くなっているのではないか」とのコメントがあります。
しかし、一方で「関東の富士見百景」(国土交通省関東地方整備局が1都8県から富士山のよく見える233地点を選んだ)の一つに認定されていた東京都葛飾区の小菅西公園で、百景の銘板が移転されたというニュースを最近の新聞で読みました。高層建築が増え、富士山が見えなくなってしまったためということでした。
これもまた、少々古いのですが、伊藤左千夫の「野菊の墓」に、次の通りあるそうです。
茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯(たかね)も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。
明治時代には、茨城県から富士山が見えていたんですね。
それでは、富士山をみることができる「最も遠い地点」はどこなのだろうという、疑問がわくのが人情です。例えば、太平洋を渡って航海している船からならどのくらい遠くから見えるのか?
海の上からは前に障害物がないので水平線ぎりぎりまで富士山が見えるはずです。海上からなら幾何学的に標高3776メートルの富士山の見える限界距離は、236キロメートルとなるそうです。
ただし、実際に富士山が見えるのは、気象条件やさまざまな要因に左右されます。また、一方で標高0メートルでなく、高い山からならさらに遠距離から富士山を見ることができます。
富士山の眺望や遠望については、さまざまな記録があります。眺望については、公式の記録(?)として認められるためには目視だけではだめで、「撮影した写真」が必要となるのだそうです。
さらに、筑波大付属高校社会科教諭の田代博氏が開発した、地図総合ソフト「カシミール3D」を使って作成した可視マップのCGに一致した場合に「認定」されるのだそうです(楽学ブックス【自然2】富士山。山の展望と地図のフォーラム代表 田代博「富士山はどこまで(どこから)見えるか」による)。
それによれば、最遠望地点は、和歌山県那智勝浦町色川富士見峠で、322.9キロメートルだそうです。
第2位、第3位も南西方向の和歌山県の妙法山322.6キロメートル、大雲取山320キロメートルが続きます。第4位は、西南西の三重県の大地山304キロメートル、第5位が北東の福島県日山299キロメートルです。この後、6位から10位には福島県、三重県、奈良県の東西方向の山が並んでいます(平成29年12月現在)。
南北方向からは、北の方向からのものは、新潟県の越後駒ヶ岳からの198キロメートルで、事務局の杉田さんが新潟県への旅の帰途、峠で富士山が見えたと話していましたので意外に思ったことがありましたが、確かに記録で裏付けられています。南東からは東京都の八丈島東山(三原山)の271キロメートルなどが記録されています。
先の遠望地点のサイトをみても、「未確認」の文字が並んでいますので、将来、目視では見えても写真撮影に成功していない地点から見えたということになるのかもしれません。
また、富士山が見える都府県は、2014年に京都での撮影に成功し20都府県に上るそうです。47都道府県の4割以上、さすがに日本一の富士山です。
静岡県ホテル旅館生活衛生同業組合 元専務理事 府川 博明
静岡県西部の富士山ビューポイント
富士山というと、静岡県も中部から東部地域にかけてのものという思い込みがあります。
静岡県西部地域政策局が、平成25年7月~11月15日まで、一般県民から募集した、「西部地域の富士山ビューポイント」、おらが自慢の富士山ビューポイントです。県民の皆さんが投稿した写真が県のホームページに掲載されていましたので、写真を見て独断と偏見で、一部をご紹介します
す。浜松市天竜区長沢の観音山林道沿線広場からも、幾重にも
重なる山並の向うに富士山の優美な姿が望めます。
同じように奥浜名湖二三月峠からの眺望も、南に浜名湖、浜松
市街、東には今年度のNHK大河ドラマの主人公、井伊直虎の
井伊谷の町と富士山が見渡せます。
湖西市新居町中之郷からは、正面に浜名湖、浜名湖ガーデンパークのタワーがあり、富士山が見えます。入出漁港北側、湖西市新所浜名湖畔(東岡天満宮付近)など、いずれも浜名湖の湖面の向こうに富士山の優美な姿を望めます。
浜名湖大崎半島弘法岩(浜名湖周遊自転車道・奥浜名湖自然歩道)からのビューは、奥浜名湖の湖面越しに富士山が遠望でき、夕景の中の富士のシルエットは旅情をそそるあでやかさです。
浜松市西区西山町の航空自衛隊浜松広報館からの富士山は、富士山を見ながら自衛隊機の離発着とその前後に広報館の展示等も楽しめるそうです。
天竜川右岸河口からは、遠州の空っ風に因んで、風力発電機のある風景では、遠州大橋と対岸の風力発電の風車と富士山、南に遠州灘が見渡せます。
磐田市福田の太田川「はまぼう公園」では、公園内に野鳥の観察小屋があり、釣りも楽しめるそうです。磐田市和口太田川和口橋は、川面の上に富士山が見えるところが素晴らしいとの評があります。
掛川市では、小笠山あずま屋(小笠神社付近)、八高山山頂、東山粟ケ岳山頂などから南アルプス・黒法師・大無眼山・粟ヶ岳・富士山・伊豆半島のパノラマ眺望が楽しめます。
御前崎港近辺からは、日の出時の富士山、海の向に波と水平線から立ち上がっている富士の雄姿が望め、島田市金谷富士見町(牧之原公園)からは名前通り大井川をはさんだ向う側の富士山がすばらしい。
また、富士山静岡空港からも飛行機の発着の背景に島田や金谷の町並と並んだ富士山が望めます。
静岡県ホテル旅館生活衛生同業組合 専務理事 府川博明
富士山と「ラブライブ!サンシャイン」
富士の麓に生まれた作家と言えば、沼津にゆかりの芹澤光治良と井上靖の名前が浮かびます。 芹澤光治郎の生まれた沼津市我入道には、芹澤文学館があり、我入道連合自治会館の壁に次の文章が刻 み込まれています。 われこの地に生まれ 跣で育ちて 世にはばたけど 時に西風胸を叩きて だせん(難船)だと おびやかしてやまず されど清き狩野の流れ 心を洗ひ けだかき富岳は常にわれをはげませり 翁になりて帰れば 村人は豊かに極楽人になりて我を迎う 思えばありがたきかな 本籍ここにありて 極楽人の仲間なるを 1983年 八十六翁 光治良 我入道は、もとは島だったという標高70メートルの牛臥山の麓に抱かれるような小さな漁村で、牛臥山を挟んだ山向こうは、大正天皇が皇太子時代に静養のため造営された沼津の御用邸があります。 芹澤光治良の生い立ちの中では、ここでのきびしい生活もあったのでしょうが、富士山を望む当時の牛臥は静岡県の中でも気候温暖な入り江の村で、先の壁文にも後年になってのその気持ちが反映されていそうです。 もう一方の井上靖は、伊豆湯ヶ島(現・伊豆市)で代々続く医者の家に生まれ、父が軍医として従軍していたため、郷里伊豆湯ヶ島で育ちました。
幼い頃、どうしてあんなに富士が大きく見えたのであろう。北の空いっ
ぱいに拡って見えた。私たち子供は田圃の畦道に棒杭のように突立って、
ひびの切れた手に、白い息を吹っかけながら元旦の富士を見た。楽しいこ
とが起るに違いない期待に胸をふくらませ、倦(あ)かず富士を見た。
(井上靖文学館HP、1966(昭和41)年1月1日付『東京新聞』発表)
また、富士山と作家と言えば、誰もが太宰治の名前を思い浮かべ、「富嶽百景」を思いおこすことでしょう。「富士には月見草が良く似合ふ」の一節で知られるこの小説は、河口湖町の御坂峠の天下茶屋に滞在したときのものです。 しかし、太宰は伊豆半島の西の付け根、先ほど触れた我入道からほど近い沼津市三津にある創業明治22年の安田屋旅館に、昭和22年2月上旬から約半月ほど滞在し、名作「斜陽」を執筆しました。 安田屋旅館は、国登録有形文化財に登録された純和風数寄屋造りの落ち着いた佇まいの建物ですが、太宰が逗留して執筆した部屋が、当時の雰囲気をそのままに残され、宿泊もできます。この海に面して二方が廊下になった10畳の角部屋からは船着き場と富士山が眺望できるそうです。執筆の合間には駿河湾越しの富士山を見ながら目を休ませたことでしょう。 時代は下って、またこの三津が脚光を浴びています。 新しい「みんなで叶える物語」をキーワードにアニメーション DVD&BD付音楽、CDのリリース、イベント、雑誌、スマートフォン向けアプリなど、様々なメディアを巻き込んだ「スクールアイドルプロジェクト」だそうですが、おじさんには何のことかよくわからないことが多いのですが、沼津市内浦を舞台にしたスクールアイドルグループ「Aqours(アクア)」によって展開する物語なのだそうです。 平成28年の7月から9月に放送されたテレビアニメ「ラブライブ!サンシャイン」は、沼津市内浦に架空の女子高校の「浦の星女学院」を設定し、統廃合の危機に瀕していた中、学校を盛り上げるために9人の生徒が立ち上がり、スクールアイドルを目指すというここを舞台とする物語が展開されています。 ビジュアルのロケ地として沼津市内浦がたくさん出てきたため、宿泊施設、バス、遊覧船、神社などを多くの聖地巡礼者が訪れる騒ぎになっています。 時代が変わり、物語も変わっていきます。 静岡県ホテル旅館生活衛生同業組合 専務理事 府川博明
本日は「2・23 富士山の日」です
本日は朝からあいにくのお天気となりました。
2013年6月26日、世界文化遺産に登録されました。
山岳信仰や葛飾北斎らの浮世絵の題材となるなどしてきました。
県内各地から、角度の違う富士山を見ることができます。
雪をまとった富士山を見に、静岡県にお越しください。
ふじのくに静岡 ホテル旅館女将 あけぼの会事務局
2017富士山の日お宿キャンペーンが始まりました
2月23日「富士山の日」にあわせ、2017富士山の日お宿キャンペーンが
始まりました。
静岡県ホテル旅館組合加入施設にご宿泊いただいた方に
キャンペーンハガキをお渡しします。
クイズに答えて応募すると、1万円分の宿泊クーポンを抽選でプレゼント致します。
冬真っただ中の今、比較的富士山が見やすい日が続いております。
写真は沼津市淡島より。雲が多くても、しっかりその姿が確認できます。
どうぞこの機会に静岡県へお越しください。
キャンペーンの詳しい内容はこちら↓をご覧ください。
ふじのくに 静岡の宿 あけぼの会事務局
富士山、信仰と宗教の山
富士山は、富士山そのものを神さまとしたり、信仰・崇拝の対象とする信仰の山です。代表は、浅間信仰で各地に浅間神社があります。その他、著名なものに富士講や村山修験などがあげられます。
富士講は、江戸時代、御師が宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷など富士信仰全般を世話し、これによって庶民の間で爆発的な興隆を見せました。関東・中部はもちろん、東北や近畿など全国的に広がり、これによって各地に浅間神社が祀られ、富士塚が築かれるようになりました。
一方の村山修験は、富士山頂に大日寺を構えた末代上人が山麓の村山(現富士宮市)の富士山興法寺を拠点に行った富士山域の回峰行です。富士講に比べ修行色が強く、富士山腹から宝永山や愛鷹山、三島明神(三島大社)などを26日かけて巡ったと言います。
全日本大学女子選抜駅伝競走は、名前の通り日本学生陸上競技連合主催の女子の大学駅伝大会です。平成6年から開催され、平成25年からは正式略称を「富士山女子駅伝」として、富士山本宮浅間大社前をスタートし、富士総合運動公園陸上競技場までの7区間全43.4kmのコースで、例年冬季に行われてきました。富士での開催4回目を迎えた今年は、年末12月30日の開催となっています。さしづめ、現代版の回峰行と言えるのでしょうか。
浅間信仰の核となる浅間神社は、静岡県や山梨県を中心に全国に約1300社が分布しており、静岡県では115社が数えられます。富士山8合目以上の大半を境内とする富士山本宮浅間大社(富士宮市)を総本宮としています。
ちなみに、富士山頂を含むこのエリアは、県境をめぐって静岡県と山梨県の間に争いがあり、どちらの県でもありません。山頂の神社や富士山頂郵便局の住所は、「〒418-0011 静岡県富士宮市粟倉地先」。県境がないのも、県境が定まっていないのに住所が静岡県というのも不思議です。
タイトルの「富士山、信仰と宗教の山」の意味は、富士山そのものを信仰の対象とする宗教活動もそうですが、神々しい富士山の周辺にはその他数多くの宗教的な遺産が残されています。富士山には月見草ならぬ新旧取り合わせて宗教が似合うのです。
古くなりますが、日蓮上人は1257年富士市岩本にある実相寺に籠り、天台宗僧・円珍が唐から請来した一切経を閲読、思索し、同寺で立正安国論を起草しました。政治、宗教のあるべき姿を当時の鎌倉幕府執権北条時頼に提出したものです。残念なことに、その一切経は、一部を残して武田氏の兵火により焼失しています。実相寺は、富士市でも有数の伽藍を備えたお寺であり、その佇まいは日蓮聖人ゆかりの寺として整備されています。
富士市今井の毘沙門天は、お寺のHPによれば「今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜ゼロメートルから富士山に登った、その禊ぎの道場が当山の起こり」とされています。このお寺を出発点に海抜ゼロメートルからの富士登山もありかもしれません。
主神の毘沙門天像は、聖徳太子の御親作と伝わっています。普通の像が悪鬼を踏みつけているのに対し、この像は聖徳太子の上に毘沙門天王が立って護るという開運の「守護神像」だそうです。『日本書紀』第21には、聖徳太子が物部守屋を征討した時、四天王像を造って祈願して戦勝し、後に摂津国に四天王寺を造立した、と記されています。聖徳太子と四天王、なかでも毘沙門天とのかかわりは深い関係があります。
富士の毘沙門様は、正式には香久(こうきゅう)山妙法寺といいますが、これも奈良の香具山にちなんだ名前との説もあります。伝説では、聖徳太子が神馬に乗り、富士山を越え、信濃の国に至ったとする「甲斐の黒駒」伝説もあるなど、静岡県の富士から山梨県、長野県にかけては、聖徳太子と強いつながりのある地域です。
なお、この毘沙門天の2月の大祭は、日本三大だるま市の1つとして有名で、ここで売られる立派なひげのだるまは五穀豊穣、商売繁昌などの縁起物として人気があります。
このほかにも、沼津の白隠禅寺、興津の清見寺など、富士を取り巻く名刹・古刹が数多くあります。富士山と信仰をテーマに行脚する旅はいかがでしょうか?
静岡県ホテル旅館生活衛生同業組合 専務理事 府川博明
富士山と「大生部多」の話
今から約1370年の昔、日本書紀第24巻の皇極記にでてくる富士山麓に住んでいた大生部多(おおふべのおお)の少し変わったお話を紹介したいと思います。
原文は、漢文でとても読みにくいので、やや正確さを欠くかもしれませんが意訳すると次のとおりです。
東国の不尽河(富士川)のほとりに住む大生部多は、虫を祀(まつ)ることを村里の人に勧めて言いました。「これは常世(とこよ)の国の神。この神を祀るものは富と長寿が得られる」。男女の神官たちも、人々を欺いて神の言葉に託して「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る」と人々に家の財宝を捨てさせた。人々は酒や野菜、家畜の肉を道ばたに並べ、「新しい富が入って来た」と浮かれていました。
都の人も田舎の人も、常世の虫を取って、清らかな場所において、歌ったり踊ったり、珍しい宝を棄捨しました。それで得られるものがあるわけもなく、損失が多くなるばかりでしたので、山城国葛野郡(現在の京都市右京区あたり)の秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)は人々が惑わされているのを憎んで、大生部多を打ちこらしました。神官たちも恐れて、祀ることを止めました。その当時の人は次のような歌を歌いました。「太秦(秦造河勝)は 神のなかの神と聞える 常世の神を 打ちこらしたのさ」
この常世の虫は、橘や山椒に付く長さ四寸、大きさは親指ほど、色は緑色に黒い斑点があって、形は蚕に似ている。
以上が日本書紀に記された物語です。この話の中に出てくる「常世の虫」は、柑橘類につくアゲハチョウの幼虫ではないかと言われています。「常世の国」は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる一種の理想郷で不老不死や若返りなどと結び付けられ、同じく「日本書紀」の垂仁紀では、垂仁天皇が田道間守(たじまもり)を常世国に遣わして、不老不死の薬となる「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を求めさせたが、その間に天皇は崩御したという記述があります。
この時、常世国に求めた木の実が「今橘と謂ふは是なり」とあって、この時代には橘(以下表記を「タチバナ」とする)のことと考えられていました。
静岡県史には、現在の富士市の田子の浦港と浮島沼の一帯は、富士の広大な裾野に加えて、駿河湾と富士川、浮島沼などの沼沢地があってさまざまな自然の産物をもたらす聖徳太子とゆかりのある「稚贄屯倉(わかにえみやけ」、全国におかれた皇室の直轄地のひとつであったといいます。
ここから先は想像です。大生部多は、タチバナが常世の国からもたらされ、それに付いて来たアゲハチョウの幼虫を常世の国から来た神と認識したこと。もう一つ想像をたくましくすると、すでに静岡県の富士川のほとりはタチバナをはじめ柑橘類の植物が栽培され、大生部多もそれに携わっていたのではないかと思われます。
当時は、現在の静岡県はもちろん、神奈川県から茨城県まで広いエリアでタチバナが栽培されていたことは、現在に残る地名や風土記などから推測されています。今も、駿河湾に面し、温暖な気候に育まれた沼津市西浦地区は西浦みかんのブランドで有名ですし、戸田には国内最北限のタチバナの自生地がありますが、その当時の名残ではないかと思われたりします。
この話の中に突如出てくる秦の河勝は、聖徳太子から仏像をもらって京都の太秦の広隆寺にお祭りしたという歴史上著名な、聖徳太子にゆかりの深い人物です。
この大生部多が「常世の虫」を祭る事件を起こしたのが西暦644年。前年には、聖徳太子の子供である山背大兄王子が蘇我氏の軍勢に責められ自殺しています。
そして、翌645年は中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって蘇我氏を滅ぼした歴史でおなじみの乙巳の変(いっしのへん)、その後の大化の改新へとつながっていて、日本書紀に記されているこのエピソードも、何かそのあたりと係わりがあったような気がしてなりません。
このような流れの下で、この宗教事件を考えると、大生部多が蘇我氏に山背大兄皇子を殺されて手をこまねいている秦河勝に対するあてつけと考えると得心が行く部分があります。芋虫を祭ったのは、秦氏の絹生産の「蚕」を揶揄するもの、常世の国信仰も聖徳太子から仏像を与えられ広隆寺を興している秦氏の「仏教」信仰に対する挑発、聖徳太子ゆかりの屯倉の人々は、山背大兄王子を失い、一時的に無主の民に近い環境にいたのではないか、などなどさまざまに妄想がわいてやみません。ちなみに、大生部多の事件を鎮圧したとされる秦河勝は、現静岡県知事川勝知事のご先祖様で、秦河(川)勝の御子孫は秦氏と川勝氏に分かれたとのことです。昔から静岡県との縁が深いと歴史の妙に驚かされます。
静岡県ホテル旅館生活衛生同業組合 専務理事 府川博明
10.26初冠雪となりました
今朝は昨夜の雨のおかげで空気が澄んでいます。
とても富士山がきれい!
そして、昨日の寒さでやっと今朝、初冠雪を迎えました。
頭にちょこんとハンカチを載せたくらいでしょうか
風が吹いたら舞ってしまいそうな静岡県側の富士山です。
明日27日から、右の建物
静岡県コンベンションアーツセンター グランシップにて
世界お茶まつり2016秋の祭典 が開催されます。
お茶にまつわる 音楽、香、花など様々なイベントが開催されます。
こちらは10.09の写真です
ふじのくに静岡 ホテル旅館 あけぼの会 事務局
富士山と田子の浦
田子の浦の名は、万葉集に納められた山部赤人の「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ
富士の高嶺に 雪は降りける」の歌で有名です。
その田子の浦も1960年代から70年代前半にかけては、ヘドロ汚染による公害問題で全国的に
その名が知られることになったのですが、今は田子の浦漁協の「生しらす丼」の新鮮な味覚が
観光客をひき寄せるなど、環境改善が進み本来の姿を取り戻しています。
このように田子の浦の地名は、現在の富士市田子の浦港付近と思われそうですが、昔は今より
広い範囲を指していたようです。ちなみに、先の山部赤人の歌は、西から東に向かって薩埵
峠を越え由比あたりの海岸線に出たときの感動を歌ったものと解釈されているようです。した
がって、静岡市清水区の薩埵峠あたりから由比、蒲原あたりまでの海岸も田子の浦と呼ばれて
いたとされます。
この歌は、峠を越え海岸線に出た瞬間に目の前に現れる富士の威容を思い浮かべれば納得です。
ただし、この歌の情景は、ほかにも解釈のしようがありはしないかと個人的には思っています。
例えば、11世紀の中ごろに記された菅原道真の子孫にあたる菅原孝標のむすめが記した更級
日記には、「田子の浦は浪高くて、船にて漕ぎ巡る」とあります。山が海に迫っているこのあた
りの海岸線は、今でも波が高い台風の時などは海岸線を走る東名高速道路が通行止めになります。
当時も波が高いと海岸線を歩くことが危険なため、海の荒れた日にはかえって船に乗って通り過
ぎたことがこの日記などからも推測できます。したがって、山部赤人が現在の興津あたりから
田子の浦あたりを船で移動したとも考えられ、駿河湾からの雄大な富士の姿に感動して詠んだ歌
と考えると、違った意味で富士の威容に対する感動を共有できそうです。
現在は、静岡市の清水港と伊豆市の土肥港を65分で結ぶカーフェリー「駿河湾フェリー」が運航し
ています。平成25年4月からはこの航路が静岡県道223(ふじさん)号となっていて、天気がよけ
れば駿河湾上に昔に変わらない雄大な富士山を眺めることができます。
この船の発着地の清水港と土肥港の線の富士山側が大まかに言って、昔の田子の浦ということ
ですが、土肥港にほど近いこの線の外側の同じ駿河湾内の西伊豆町にも田子という地名があります。
一般的には、「田子」は田を耕す人で農民のことですが、古代には西伊豆町も由比、蒲原から富士
近辺も稲作に適するような地域ではなく、むしろ漁業が主体の地域と思われます。
字は異なりますが、古い石碑として有名な群馬県高崎市の「多胡碑(たごのひ)」は、通説では
「多くの渡来人」あるいは「多様な出身地の渡来人が居住する地」という意味で、約千三百年前に
「多胡郡」が新たに設置されたことを記したものとされています。
7世紀以降、朝鮮半島から百済や高句麗、新羅の人々や中国系を称する秦氏の民などが日本に渡
来し、日本書紀や続日本紀には、これらの人々を関東中心に集団で移住させたという記事が頻繁に
みられます。
西伊豆町の場合も、式内社伊豆國那賀郡哆胡神社が存在するなど、もともとは多胡であったと思わ
れます。歌に詠まれた田子の浦も同様でないかと想像されます。
このほか、天智2(663)年8月の朝鮮半島の白村江の戦いは、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・
新羅連合軍との戦いですが、静岡市清水地区を本拠とした廬原国造(いおはらのくにのみやつこ)
一族の「庵原の君臣(きみおみ)」が1万人の兵士を引き連れて参戦しています。今に残る清水区の
駒越の地名は、海外に渡った人たちの住んでいた地を表すか、もしくは敗れた百済人などが多く帰
化し、コマ(高麗)が地名として残ったものかもしれません。山梨県の巨摩、東京の狛江なども同じ
と言われています。
このようなことから、7~8世紀の静岡県は、大変国際的な色彩の色濃い地域であったように考え
られます。
いずれにしても、これらの地がそれぞれに美しい富士をまじかにできる景勝の地であったことは、
遠い故国を離れ、新しい土地に住むこととなったこれらの人々の心を慰めたことと思われ、この地
に新たに住むことになった人々に富士山への強い憧憬の念を引き起こしたと想像されます。
静岡県ホテル旅館生活衛生同業組合 専務理事 府川博明
富士山 初冠雪について
まだ、今年の初冠雪は記録されていませんが、
2016年の初冠雪はいつになるのか、待ち遠しいこの時期。
先日、25日にうっすら白く!と目撃情報も出ているようなのですが、
初冠雪は見送りだそうです。
実際は、山梨県の甲府地方気象台が観測しているんですよ。
ご存知でしたか?
「山の一部が雪等の固形降水により白くなった状態が初めて見えたとき」
としているのだそうです。
いずれにしても、待ち遠しいですね。
ふじのくにしずおか ホテル旅館 女将 あけぼの会事務局