富士山
富士山と田子の浦
田子の浦の名は、万葉集に納められた山部赤人の「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ
富士の高嶺に 雪は降りける」の歌で有名です。
その田子の浦も1960年代から70年代前半にかけては、ヘドロ汚染による公害問題で全国的に
その名が知られることになったのですが、今は田子の浦漁協の「生しらす丼」の新鮮な味覚が
観光客をひき寄せるなど、環境改善が進み本来の姿を取り戻しています。
このように田子の浦の地名は、現在の富士市田子の浦港付近と思われそうですが、昔は今より
広い範囲を指していたようです。ちなみに、先の山部赤人の歌は、西から東に向かって薩埵
峠を越え由比あたりの海岸線に出たときの感動を歌ったものと解釈されているようです。した
がって、静岡市清水区の薩埵峠あたりから由比、蒲原あたりまでの海岸も田子の浦と呼ばれて
いたとされます。
この歌は、峠を越え海岸線に出た瞬間に目の前に現れる富士の威容を思い浮かべれば納得です。
ただし、この歌の情景は、ほかにも解釈のしようがありはしないかと個人的には思っています。
例えば、11世紀の中ごろに記された菅原道真の子孫にあたる菅原孝標のむすめが記した更級
日記には、「田子の浦は浪高くて、船にて漕ぎ巡る」とあります。山が海に迫っているこのあた
りの海岸線は、今でも波が高い台風の時などは海岸線を走る東名高速道路が通行止めになります。
当時も波が高いと海岸線を歩くことが危険なため、海の荒れた日にはかえって船に乗って通り過
ぎたことがこの日記などからも推測できます。したがって、山部赤人が現在の興津あたりから
田子の浦あたりを船で移動したとも考えられ、駿河湾からの雄大な富士の姿に感動して詠んだ歌
と考えると、違った意味で富士の威容に対する感動を共有できそうです。
現在は、静岡市の清水港と伊豆市の土肥港を65分で結ぶカーフェリー「駿河湾フェリー」が運航し
ています。平成25年4月からはこの航路が静岡県道223(ふじさん)号となっていて、天気がよけ
れば駿河湾上に昔に変わらない雄大な富士山を眺めることができます。
この船の発着地の清水港と土肥港の線の富士山側が大まかに言って、昔の田子の浦ということ
ですが、土肥港にほど近いこの線の外側の同じ駿河湾内の西伊豆町にも田子という地名があります。
一般的には、「田子」は田を耕す人で農民のことですが、古代には西伊豆町も由比、蒲原から富士
近辺も稲作に適するような地域ではなく、むしろ漁業が主体の地域と思われます。
字は異なりますが、古い石碑として有名な群馬県高崎市の「多胡碑(たごのひ)」は、通説では
「多くの渡来人」あるいは「多様な出身地の渡来人が居住する地」という意味で、約千三百年前に
「多胡郡」が新たに設置されたことを記したものとされています。
7世紀以降、朝鮮半島から百済や高句麗、新羅の人々や中国系を称する秦氏の民などが日本に渡
来し、日本書紀や続日本紀には、これらの人々を関東中心に集団で移住させたという記事が頻繁に
みられます。
西伊豆町の場合も、式内社伊豆國那賀郡哆胡神社が存在するなど、もともとは多胡であったと思わ
れます。歌に詠まれた田子の浦も同様でないかと想像されます。
このほか、天智2(663)年8月の朝鮮半島の白村江の戦いは、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・
新羅連合軍との戦いですが、静岡市清水地区を本拠とした廬原国造(いおはらのくにのみやつこ)
一族の「庵原の君臣(きみおみ)」が1万人の兵士を引き連れて参戦しています。今に残る清水区の
駒越の地名は、海外に渡った人たちの住んでいた地を表すか、もしくは敗れた百済人などが多く帰
化し、コマ(高麗)が地名として残ったものかもしれません。山梨県の巨摩、東京の狛江なども同じ
と言われています。
このようなことから、7~8世紀の静岡県は、大変国際的な色彩の色濃い地域であったように考え
られます。
いずれにしても、これらの地がそれぞれに美しい富士をまじかにできる景勝の地であったことは、
遠い故国を離れ、新しい土地に住むこととなったこれらの人々の心を慰めたことと思われ、この地
に新たに住むことになった人々に富士山への強い憧憬の念を引き起こしたと想像されます。
静岡県ホテル旅館生活衛生同業組合 専務理事 府川博明